掛川古城

掛川城から徒歩5分
1.掛川古城の沿革
 駿河を安定化させた駿河守護今川氏は、文明6年(1474)今川義忠が懸革荘代官職に就くと隣国遠江への侵攻を開始、その一環として今川氏の重臣朝比奈氏により築かれたのが掛川古城です。掛川古城が築かれたのは、明応年間はじめ(1492年頃)と考えられます。
 16世紀前半、朝比奈泰能(二代)の代になると、今川氏の勢力拡大に伴う城域拡張の必要から、現在の地に新城が築かれます。新城築城後の掛川古城がどのように利用されたかはわかっていませんが、次に歴史上の舞台に現れるのは永禄11年(1568)の徳川家康による掛川城攻めです。掛川古城は今川・朝比奈方の出城に用いられ、古城ならびに周辺において複数回にわたり小競り合いが繰り返されました。半年余りの攻防の末、掛川城は開城しました。
 徳川氏の領有となった掛川城は、対武田氏との最前線に位置する城郭として大改修されることになります(P16参照)。
 豊臣配下を経て徳川幕府下においては譜代大名の城となりますが、しばらく掛川古城に関する記録は見られません。明暦2年(1656)、時の藩主北条氏重により、本曲輪に徳川三代将軍家光の霊牌を祀る龍華院大猷院霊屋が建立されます。文化15年(1818)に焼失しますが、文政5年(1822)時の藩主太田資始により再建されます。
 近世以降は、国道1号(県道415号)の開通による北部の削平、二の曲輪から三の曲輪にかけ水道水源施設による改変等を受けつつ、平成には公園として整備され、中世山城としての景観を残しながら現在に至っています。


2.掛川古城の縄張(構造)と大堀切
 掛川城から北西500m程の丘陵にあります。東西に長軸をもつ丘陵上に、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪が直列に配置されています。龍華院大猷院霊屋(以下、霊屋)が鎮座する最高所に本曲輪を置き、大堀切を挟み東に二の曲輪・三の曲輪が配置されています。
 本曲輪の東から北東にかけては高さ1.5m、幅10m程の土塁が残されています。土塁と並んで掛川古城の遺構として注目されるのが、本曲輪と二の曲輪を分断する大堀切で、現状での規模は長さ65m、幅15m、深さ7mを測り現在でも見る者を圧倒します。城として使われなくなって450余年、埋没と崩落により形状が変化しており、部分的な発掘調査により戦国時代の規模が明らかになりました。土塁まで含めたその深さは12m、上部幅15m、底部幅2mを測る巨大な堀切であることが判明しました。また、大堀切の壁は60度近い急角度で立ち上がるもので、堀底から見上げる様はまさに絶壁として映ります。
 堀切そのものは、朝比奈氏(今川氏)の時代にも存在したと考えられますが、往時の規模はこれほど大規模なものでありませんでした。遠江において、このような大規模な堀が採用されるのは天正年間(1573~92)頃とされており、掛川古城においては、永禄12年(1569)掛川城攻めで今川氏から徳川氏への城郭となっていることから、徳川氏により改修された可能性が高いと考えられます。


①大堀切
本曲輪と二の曲輪を分断する大堀切。山城において、これだけ大規模な堀切は稀有。
②本曲輪土塁
幅10m、現存高1.5mを測る。往時は2~3m程の高さがあった。
③掛川古城から天王山砦を望む
こんもりとした小山が天王山砦。砦に適した独立丘陵であることがわかる。
④本曲輪
本曲輪は二段から成り、高い箇所に龍華院大猷院霊屋が鎮座する。
遠江守護斯波氏に近い勢力、横地・勝間田氏の室町幕府奉公衆、井伊・天野・原氏など後に国衆へと成長する勢力がモザイク状に割拠する複雑な様相を呈していた。
450余年を経て、土塁は崩れ、堀は半分程埋没。堀の斜面にも樹木が鬱蒼とはびこる。

掛川古城平面図
市街地にあるがゆえに改変を受けているものの、曲輪・土塁・堀切等の遺構がよく遺されている。
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