[一]徳川領有時代の掛川城とは
 天正十八年(一五九〇)、徳川家康四十九歳の時、豊臣秀吉により天下統一され、それまで掛川城を含めた遠江を領有していた家康は関東に移封されてしまいます。掛川城には豊臣配下の山内一豊が入城します。山内一豊は、石垣、天守に代表される高層の瓦葺き建物、礎石建物等の往時の築城における最新技術を導入し、近世掛川城の礎を築きました。現在、復元整備されている掛川城は、山内一豊により近世城郭としての礎が築かれ、その後、整備と拡張が進められた十七世紀中頃の様子がイメージされています。徳川家康が領有していた永禄十二年(一五六九)から天正十八年(一五九〇)[家康二十八~四十九歳]までの戦国期掛川城の様相は不明な点が多いため、往時をイメージすることは難しいのが実情です。ただし、この時代の掛川城には石垣、瓦葺きの建物、天守は存在しませんでした。
 このように、天守に代表される近世城郭として語られることの多い掛川城は、中世城郭としての痕跡を見出すことも難しい状況にあります。とは言え、徳川氏が領有していた戦国時代の二十余年、掛川城は徳川氏の手により改修されていたと考えられます。とりわけ、武田氏との抗争が続いていた領有直後は、対武田氏の最前線に位置する城郭として改修された可能性が極めて高いはずです。残念ながら、それを示す文献史料は存在しません。


掛川城本丸虎口発掘調査
平成5年(1993)の発掘調査で姿を現した本丸虎口。三日月堀・十露盤堀・内堀(松尾池)で囲まれた技巧性を駆使した造りとなっている(P16参照)。幕末、掛川城御殿が建てられる前は、御殿の庭先もしくは御殿の下にまで十露盤堀が及んでいた。内堀(松尾池)は、さらに西側に延びていた。
霧吹き井戸
天守入り口に現存する井戸。家康が今川氏の籠る掛川城を攻めた際、井戸から立ち込めた霧が城を包み守ったと伝わる。


[二]発掘調査からみた徳川家康の痕跡
 徳川氏の改修の痕跡は、発掘調査により発見されました。家康の痕跡もしくは影響下にあった具体的な箇所とは、掛川城主要部の出入り口にあたる本丸虎口(三日月堀・十露盤堀・内堀(松尾池)で囲まれた空間)で、現在でもその威容を目にすることができます。
 三つの堀に囲郭された虎口は、馬出空間を備えた桝形※7虎口とも見え、非常に技巧的な虎口であると評価されています(P16参照)。この技巧的な虎口が造られた時期について、発掘調査の結果、今川氏配下の朝比奈氏による築城よりも後であり、かつ山内一豊が入城するよりも前であることが判明しています。すなわち本丸虎口の構築は、徳川家康によるものと言えます。また、遠江においてこのような大規模かつ技巧的な虎口は、十六世紀後半以降にならないと出現(採用)しないとされています。実例をあげると、掛川城の本丸虎口と同様、大規模な三日月堀と横堀を駆使した諏訪原城(島田市)の馬出虎口は、これまで武田氏によるものとされてきましたが、発掘調査と近年の研究によれば、ほとんどが天正六年(一五七八)以降の徳川氏の大改修によるものであることが判明しています。
 このように発掘調査結果と周辺の城郭の様相を勘案すると、掛川城本丸虎口は三日月堀・十露盤堀・内堀(松尾池)と馬出状の空間を兼ね備えた大規模かつ技巧的な虎口として、徳川家康により天正年間のはじめ頃(一五七六~八〇)に構築されたものと結論付けることができます。
 掛川城において、『正保城絵図』に代表されるような外堀により城下を囲郭した、惣構※8としての縄張が近世掛川城の端緒となったものであるとの見解には異論はないでしょう。これまで山内一豊以前の様相は不明な点も多く、そのため徳川氏以前の掛川城についてはどちらかと言えば過小評価されがちなきらいがありました。前述のように、本丸虎口の出桝形とも呼べる技巧的な虎口の原型は、徳川家康の時代(天正年間のはじめ頃)の遺構であり、徳川氏の普請※9がことのほか大規模なものであったとことがわかります。

※7【桝形】虎口(城の出入口)の前面に方形の空間を設けることで、攻め手は直角に曲がらないと門へ入れず、守り手は攻め手に対し横側から攻撃できるような技巧的な虎口形態。曲輪の外側に飛び出して造られたものを外桝形(出桝形)と呼び、曲輪の内側に設けられたものを内桝形と呼ぶ。
※8【惣構】城中枢部のみならず城下町まで堀や土塁で囲んだ防衛ライン。
※9【普請】城を造る際、設計図通りに曲輪を造ったり、堀を掘ったりする土木全般を指す。


【三日月堀の土層断面】徐々に埋没した下層と、人為的に埋められた上層に分かれる。
【三日月堀の石垣】発掘調査によって現れた三日月堀の石垣。三日月堀を埋める際に石垣の上層から中層は崩されていた。
【三日月堀の石垣】崩された石垣を撤去すると、積まれた状態の石垣が現れた。積まれた状態の石垣は、山内一豊時代のもの。
【三日月の穴列】さらに山内一豊時代の石垣の下から穴列が現れた。小型と大型の穴列が対を成し並んでいる。石垣が積まれる前(山内一豊時代より前)には、三日月堀の肩部に何らかの構造物が存在していた。
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