[一]
今川氏の凋落と
掛川城攻め前夜の遠江
 徳川家康こと幼い頃の松平元康は、国(三河)を失い、父を亡くし、母とも離れ、駿河の戦国大名今川氏の人質として、ひっそりと生涯を終えると思われていました。※3ところが、家康十九歳の時、それまでの人生において最大とも言える事件が起こります。永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いで、織田信長により、家康の主君今川義元が討たれると、今川領の三河には激震が走りました。その激震とは、全盛を誇っていた名門今川氏の滅亡への序章でもありました。
 桶狭間の戦いを契機とし、家康は三河の弱小国の一武将として生きる運命を受け入れ、尾張の織田信長と同盟を結ぶことで、今川氏からの独立を図りました。その動きに同調するかのように三河の今川方の諸将・国衆※4の離反が相次ぐことになります。これが「三州錯乱」と呼ばれるもので、やがてその離反劇は遠江にも波及していきます。家康による西遠の諸氏の懐柔にくわえ、北遠の国衆には武田信玄からの離反の働きかけもあり、遠江は「遠州忩劇」と呼ばれる混乱状態に陥りました。
 永禄五年(一五六二)頃から、井伊谷城の井伊直親、引馬城の飯尾連龍、犬居城の天野景貞、堀越城の堀越氏延らの遠江諸将・国衆が離反していきます。この離反に対し今川氏真も離反阻止に動き、見せしめとして井伊直親(徳川四天王、井伊直政の父)を掛川城下にて殺害、逆心を企てた飯尾連龍の引馬城を攻めました。

※3近年の研究によれば、元康は今川家中で親類衆(親族衆)として処遇され、人質ではなく今川氏の三河支配を支える一門格であり、有力国衆であったと考えられている。
※4【国衆】戦国時代に一定の領域を支配した領主のことで、戦国大名の家臣ではあったが、戦国大名同様配下に一門・家臣の集団を持ち、排他的かつ一円的に領域支配を行っていた。


十九首塚
掛川城下の西端、宿場町への入り口手前にある首塚。天慶2年(939)平将門の乱にかかわる首塚とも、井伊直親が殺害された場所とも云われる。
遠州忩劇
当主義元の討死後、氏真は越後の上杉謙信の関東侵攻の対応にも追われ、三河・遠江の安定化に専念できずにいた。その結果、国衆は今川氏の政治的・軍事的な保護を得ることが難しい状況となり、今川氏との従属関係の見直しを迫られていた。今川方に付くか、反今川として反旗を翻すかの内乱状態に加え、一族内でも武田・徳川のどちらかに付くかの帰属をめぐり内訌に及ぶこともあり、混沌とした状況が見て取れる。
※内訌(ないこう): 内紛、内輪揉め。


[二]
家康、掛川城攻めに出陣
 三河を死守していた今川氏でしたが、永禄八年(一五六五)今川方にとっての三河の要衝吉田城の陥落により、ついに三河を失うことになりました。さらに家康による今川領国の切り崩しは遠江に及び、それは甲斐の武田信玄による駿河侵攻を刺激することになりました。今川氏の勢力が衰えた永禄十一年(一五六八)頃になると家康と信玄は、今川攻め(遠江・駿河への侵攻)において利害が一致したのです(信玄が駿河、家康が遠江と、それぞれ今川領を分割する密約があったとされます)。
 当時の駿河・遠江の状況は、表面上、武田・北条・今川氏による甲相駿三国同盟が継続されていました。そのため家康が遠江に侵攻すれば、今川氏と同盟関係にある北条氏に攻撃される危険性がありました。ところが、前述のような家康と信玄の利害一致によりその危険性は回避されることとなりました。
 永禄十一年(一五六八)十二月六日、ついに武田軍が駿府館へ乱入、駿府館を追われた今川氏真は朝比奈泰朝の守る掛川城に逃げ込みました。それに呼応するかのように、十二月十二日、家康は七千余の兵をもって掛川城への侵攻を開始します。十九日には徳川方となった久野城の久野宗能に命じ天竜川に橋を架けさせ、翌二十日には掛川城から一里のところに家康も布陣、掛川城に迫りました。対する今川勢は三千余の兵が籠城していたとされます。

徳川家康の遠江侵攻
徳川家康は、7千余の三河勢を率い三河国境から本坂峠を越え、井伊谷を経由し遠江に侵攻した。井伊谷城・白須賀城などの今川氏の諸城を次々と陥落させ、要衝宇津山城を落とすと浜名湖周辺を制圧した。さらに伊那から遠江へ侵攻していた武田方の秋山虎繁を撤退させ、遠江の要衝引馬城への入城を果たした。これほどまでに早期に西遠制圧に漕ぎ着けたのは、井伊谷三人衆(浜名湖北東岸の井伊谷周辺に割拠し、今川方から徳川方へ離反した三人の武将、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)の懐柔と、侵攻の際の三人衆の先導役によるところが大きい。
遠江・駿河周辺の勢力図(桶狭間の戦い)
今川義元は周辺国と同盟関係を結び、駿河・遠江・東三河にいたる 広大な地域を支配した。さらに矛先を西へと向け、織田領に侵攻した。
遠江・駿河周辺の勢力図(掛川城攻め)
今川義元亡き後、今川領は武田・徳川両氏により東西から侵攻された。 義元の後継氏真は、駿府館を追われ掛川城へ逃げ込んだ。




[三]
掛川城包囲網と
今川・徳川両軍の総力戦
 家康は、まず北方の相谷砦に本陣※5を置き、長谷砦・曾我山砦・天王山砦の陣城を築きました。さらに、永禄十一年(一五六八)十二月二十六日には金丸山砦・青田山砦・笠町砦を築いており、掛川城包囲網が急速に整えられていったことがわかります。十二月二十七日には本陣を相谷砦から天王山砦に移し、掛川城下を放火するなど徳川方の攻撃が始まりました。
 年が明け、永禄十二年(一五六九)正月十六日、家康は青田山砦・笠町砦・金丸山砦の守備の強化を命じ、自身も本陣の天王山砦に出陣、本格的な合戦が開始されることになります。掛川古城周辺では両軍の総力戦が展開、一進一退の攻防が続けられていました。
 その後、膠着状態が続くなか、家康はさらに六ヶ所の陣城を築き包囲網の強化を図りました。
 三月四日、家康は戦況打破を期して再度出陣、徳川方では本多忠勝らの諸将も参戦、対する今川方は城将朝比奈泰朝らが応戦、今川方百余人(徳川方六十余人)の戦死者を出すものの攻略には至りませんでした。


※5【砦・陣城・本陣】戦国時代、城攻めの戦法として、攻撃側が敵城の周囲に簡易的かつ臨時的な要塞をごく短時間に多数構築し、敵城への兵や物資の補給を絶ち孤立させ、最終的に開城(降伏)させるもので、戦国時代末期に多くの合戦で用いられた。本陣とは、城砦群の中で中核をなし、総大将が指揮を執る本営のこと。


笠町砦縄張図
掛川城の東700mの独立丘陵にある砦で、現在は神明宮が鎮座。社が建つ 平場を本曲輪とし、掛川城に対峙する南西側に階段状に配置された腰曲輪が残る。
天王山砦縄張図
掛川城の北900mの丘陵にある砦で、家康が指揮を執った本陣が置かれた。 現在は、龍尾神社が鎮座。明瞭な遺構はないが、古墳を利用した物見台が残る。


[四]
講和、そして開城へ
 家康は十六にも及ぶ陣城による包囲と波状攻撃を展開しましたが、予想以上の今川勢の抵抗にあい、攻略どころか戦況の好転もみられませんでした。家臣からの進言もあり、力攻めは困難として、講和交渉が三月四日から始まりました。この頃、家康は堀江城の大沢基胤や天方城の天野藤秀らの西遠、北遠の抵抗勢力への執拗な調略※6を行っており、未だ遠江国内が不安定であったことがわかります。家康にとって、掛川城がことのほか堅固であったことに加え、この不安定下での長期戦は何とか避けたいため、和睦による開城へと決断せざるを得なかったとも言えます。
 五月六日、講和が成立、掛川城は十五日に徳川方に明け渡され、氏真は戸倉城[清水町](大平城[沼津市]とも)を経由し、北条氏を頼り小田原に入りました。名門今川氏は、掛川の地で終焉を迎えたのです。
 家康は重臣石川家成を城将に置き、本丸虎口をはじめとする城郭主要部の大改修を実施しました。今川氏滅亡後から豊臣秀吉の全国統一により徳川氏が関東に移封されるまでの約二十年間、掛川城は徳川方にとっての遠江の要衝の城郭に位置付けらました。


※6【調略】内通者(スパイ)を使って敵の中心人物を寝返らせたり、降伏させたり、謀反をおこさせたりするように仕向けること。


掛川城攻め城砦群
16の城砦の内、家康が指揮を執った本陣は、相谷砦と天王山砦だった。掛川城攻めの間、家康は浜松城からたびたび本陣に出陣していた。長谷砦には、酒井忠次、後に掛川城主となる石川家成が就き、青田山砦には、三方衆とともに後に高天神城主となる小笠原信興の名も見える。掛川城に最も近い笠町砦には、岡崎衆が配置されていた。この時代の砦は、平場である曲輪を造るほか、防備として柵を設ける程度の比較的簡便なものであったが、目的や場所により若干の機能差が見られる。
青田山砦から北方(掛川城方面)を望む
掛川城の南方を押さえる砦のなかでも、眺望が効き、 かつ機動性にも優れていたのが青田山砦。
杉谷城全体図
青田山砦とともに掛川城の南方の押さえを担った。街道(塩の道)を押さえ、監視するための曲輪・堀切のほか、兵を駐屯させる平場があった。発掘調査後、区画整理により消滅した。
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