image

 

山﨑家について

 

 

山﨑家の沿革

 

山﨑家は、江戸時代中期、掛川藩旧伊達方村寺ヶ谷の旧家から分家し、万右衛門(才兵衛)が始まりとされます。江戸時代後期には掛川藩の御用達商人として名をはせました。山﨑家は現在の当主まで11代を数え、歴代の当主は以下のとおりです。

 

初代

万右衛門[まんえもん](才兵衛[さいべい]) 生不明~宝暦5年(1755)没

 

2代

山﨑万右衛門 出生没年不明

 

3代

山﨑万右衛門 出生没年不明

 

4代

山﨑万右衛門(旭[あきら]) 明和8年(1771)頃~文政11年(1830)没

 

5代

山﨑万右衛門(義一[ぎいち]) 文化4年(1807)頃~文政13年(1830)没

 

6代

山﨑万右衛門(知盈[ともみつ]) 文化7年(1810)生~慶応2年(1866)頃没

 

7代

山﨑徳次郎[とくじろう] 天保11年(1840)生~明治33年(1900)没

 

8代

山﨑千三郎[せんざぶろう] 安政2・3年(1855・1856)生~明治29年(1896)没

 

9代

山﨑淳一郎[じゅんいちろう] 明治16年(1883)生~大正2年(1913)没

 

10代

山﨑健太郎[けんたろう] 大正2年(1913)生~平成20年(2008)没

 

 

 

松ヶ岡(旧山﨑家)の歴史

松ヶ岡(旧山﨑家)の歴史を動画で紹介しています。

 

 

 

近世における山﨑家

 

才兵衛は初代万右衛門を称し、旧伊達方村寺ヶ谷の山﨑家の二男として生まれました。分家の後、油商として油・蝋燭・雑貨などの販売を行っていました。当時の居住地は不明ですが、後に城下の西町に店舗を移転し、その際に万右衛門を名乗りはじめました。以後の当主は万右衛門を襲名することになります。

 

2代、3代に関しては、出生等の直接的な史料は見つかっていませんが、「松ヶ岡文書」(袴田銀造『掛川城略年請未定稿』所収)文化10年(1813)の「覚」によると「祖父以来御用向出精相勤候ニ付苗字御免被成下之以上」とあり2代万右衛門より御用達であった可能性があります。そしてこの時から山﨑姓を名乗ることができたとされます。

 

初代から4代旭にかけて油商を営んでいましたが、5代義一は、才右衛門に店を任せ十王町高屋敷に新たに店を開き、葛布・油を取り扱いました。義一は早世し、その弟である6代知盈が店を引き継ぎ、弘化年間に屋敷を西町から現在の地、十王裏通称「瓦屋敷」に居宅を構え、松ヶ岡といわれました。

 

御用達のほか、新田開発や土地の取得など生業は多岐にわたり名をはせました。山﨑家は、安政4年(1857)の史料(松ヶ岡文書)によれば、5人扶持から25人扶持(扶持:武士が米などを支給して家来や奉公人を抱え置くこと。またはその支給する米。俵に直して米5俵を支給することを一人扶持とされた。)が与えられ、身分も御家来並右筆格の処遇であったとされます。

 

 

 

近代の山﨑家
-千三郎の功績-

幕末の動乱期を経て、徳次郎は掛川藩の負債整理に参与し、御用金の精算として、近隣の田畑、三方原、大井川上流、伊豆天城山等の山林を取得し、県下屈指の富豪となりました。明治3年(1870年)、徳次郎の城西への隠居に伴い8代として徳次郎の弟である千三郎が15歳で家督を継ぐことになりました。

 

千三郎は、金融・財政基盤の整備、生活基盤の整備、都市交通基盤の整備などを実施し、その功績は多岐にわたります。

 

金融・財政基盤として、明治11年(1878)に産業資金活用のため、貯蓄結社「掛川厚生社」を設立、翌年明治12年に岡田良一郎と共に「資産金貸付所」を開設、1880年(明治13年)には後の静岡銀行の前身の一つとなる「掛川銀行」を掛川の松本家・鳥井家などと共に設立し筆頭株主となりました。銀行の設立の主要な目的は、製茶販売に伴う荷為替金融でした。そのため明治14年(1881)には茶生産の基盤となる茶再生工場を横浜と清水に建設し、海外へ出荷しました。

 

生活基盤整備として用水整備が挙げられます。明治20年(1887)に山﨑徳次郎・千三郎・松本義一・鳥井半次郎の4名の連名で、静岡県知事あてに「大井川疎水測量願」が提出され、事業に着手しました。その測量を基にあらたに「大井河疎水工事計画説明書」が作成されました。

 

都市交通基盤では、東海道鉄道の誘致に尽力しました。明治19年(1886)に「東海道鉄道線路之儀ニ付上申」として静岡県知事へ提出、あわせて静岡大務新聞に各有志として上申を掲載しました。これは、東海道鉄道が、焼津から海岸線を通る計画が持ち上がったことがきっかけで、上申の結果、意見が認められ明治22年(1889)に東海道鉄道が開通し掛川駅が開業しました。東海道鉄道の誘致に伴う動きは、「青田隧道工事組合」の組織、「掛川馬車鉄道施設願」の提出、「掛川鉄道株式会社創立願」など多岐にわたりました。このように金融・用水・交通など掛川の近代化の礎を築きました。

 

 

 

近代の山﨑家

明治29年(1896)7月、千三郎は42歳の若さで急逝、9代として弱冠14歳の淳一郎が家督を継ぐことになりました。淳一郎の後見人として、千三郎の甥の覚次郎が山﨑家の財産管理などを担うことになりました。

 

覚次郎は東京帝国大学で教鞭を揮った経済学者・法学者で、後に日本銀行、金融学会初代理事会長などを歴任しました。

 

淳一郎も大正2年(1913)に急逝、10代当主として息子の健太郎が家督を継ぐことになりました。明治11年(1878)の天皇の北陸東海両道御巡幸に際し行在所[あんざいしょ]として使用された敷地の一部が昭和8年(1933)には史蹟名勝天然記念物保存法により聖蹟[せいせき](天皇が行幸した地)として指定されました。しかし、昭和23年(1948)に明治天皇関係史蹟は指定解除されました。

 

 

 

 

 

 

 

掛川指定文化財 松ヶ岡
掛川市指定文化財 松ヶ岡 旧山﨑家住宅
〒436-0024 静岡県掛川市南西郷838
Copyright (c) MATSUGAOKA PROJECT. All Rights Reserved.
TOPページ
訪れる
知る
守る
利用する
問い合わせ
ブログ