[一]龍華院大猷院霊屋の沿革
 徳川家康による掛川城攻めの際、掛川城に籠った今川・朝比奈方の出城として用いられた掛川古城の本曲輪には、龍華院大猷院霊屋が鎮座しています。龍華院大猷院霊屋(以下、霊屋)とは、明暦元年(一六五五)掛川藩主の北条氏重が、徳川幕府三代将軍徳川家光(大猷院は家光の戒名)の霊牌を安置するために建立した霊屋です。霊屋建立後は江戸の寛永寺から守僧を招き、寺号を龍華院としました。檀家を持つことを禁じられたため、城主から二〇〇石余を与えられ霊屋の守護・管理に当たりました。
 文化十五年(一八一八)三月二日、掛川城下からの出火により霊屋は春日厨子と霊牌を残し焼失してしまいます。その後、文政五年(一八二二)時の藩主太田資始は、五年の歳月をかけ再建します。明治四十年(一九〇七)の大修理を経て、昭和二十九年(一九五四)一月に静岡県有形文化財に指定されました。昭和五十五年(一九八〇)半解体修理と塗装工事が実施され現在に至ります。


龍華院大猷院霊屋の内部
内部の中央には箱型の金装飾された天蓋(てんがい)が天井から吊るされ、周囲は瓔珞(ようらく:天蓋から吊るされた装身具)により華麗に装飾されている。最奥には、須弥壇(しゅみだん:仏壇の一番奥にあって一段高い場所)上に鎮座する春日厨子(かすがずし:春日曼荼羅が描かれた、位牌の収納具)があり、厨子内部に大猷院霊牌が安置されている。 ※内部は常時公開されておりません。期間限定公開。




[二]龍華院大猷院霊屋の構造
 宝殿(本殿)は、間口、奥行ともに五・五mの方形造※10、屋根は頂部に擬宝珠※11をいただき、前面に一間の向拝※12が付属します。端正な外観に対し、屋根中央の大きな擬宝珠がアクセントとなっています。
 向拝正面には唐草・剣模様等が極彩色で描かれ、徳川家紋の三つ葉葵が所々にアクセントとしてあしらわれています。特に木鼻(横木が柱から突き出した部分の彫刻)には象の頭部が立体的に彫刻、金箔が施されており、華麗さと躍動感が拝者の目を引きます。
 内部には、須弥壇と春日厨子(P10参照)が配置されています。その背後には蓮の花と葉を描いた来迎壁※13があり、春日厨子の中には大猷院霊牌が安置されています。格天井の格間には極彩色の花鳥風月が描かれ、外装に劣らぬ華麗さが演出されています。
 内外ともに漆塗り、金箔張りと極彩色が施され、小規模ながら権現造の東照宮社殿を彷彿させる荘厳な装飾が特徴と言えます。


※10【方形造】隅棟がすべて屋根の頂点に集まる屋根の形式。
※11【擬宝珠】伝統的な建築物の装飾で、寺社の屋根、階段・高欄の柱の上に設けられる飾り。
※12【向拝】日本の寺社建築において、仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分。
※13【来迎壁】仏堂の内部にある仏壇の後方の壁。


北条氏重肖像画(袋井市 上獄寺蔵)
手挟(たばさみ:向拝柱の内側に、屋根の垂木勾配に沿って入れられた化粧板)には、金色の八重牡丹と葉が立体的に浮き彫りされている。
格天井とは太い角材を井桁状に組んだ天井で、格式の高い建物に用いられる。
外面同様、内部にも徳川家紋の三つ葉葵が浮き彫りとしてあしらわれている。


[三]「氏重」は家康の甥だった
 霊屋を建立した北条氏重は、文禄四年(一五九五)甲斐武田氏の家臣、後に徳川家康の家臣となる名家保科正直の四男として生まれました。氏重の生母多却姫は、徳川家康の異父妹であり(家康の生母於大の方は、松平広忠に嫁ぎ家康を産む。しかし、後に於大の生家水野家が主君である今川氏と絶縁しため、今川氏との関係を維持する松平広忠は於大と離縁する。その後、於大は久松家に嫁ぎ多却姫を生む)、家康とは叔父と甥の関係、すなわち徳川家との非常に近しい縁をもつ武将でした。
 慶長十六年(一六一一)氏重は、小田原北条氏の一門である北条氏勝の養子となります。そもそも北条氏は天正一八年(一五九〇)小田原の役により滅亡しますが、その一門が家康の懇請により徳川氏の家臣となっていました。
 氏勝は江戸時代に下総国岩富藩一万石の城主となり、氏重が家督を継ぎました。その後、下野国富田藩一万石、遠江国久野藩一万石、下総国関宿藩二万石、駿河国田中藩二万五千石、遠江国掛川藩三万石と順調に加増され転封を重ねていきました。ところが、氏重の子は五人すべて女子であったため、万治元年(一六五八)六十四歳で死去すると、世嗣断絶(世継ぎがないため家が断絶すること)のため改易※14となりました。


※14【改易】大名や旗本などの領地や屋敷を没収し、身分を取り上げること。


[四]龍華院大猷院霊屋建立の背景
 氏重による霊屋建立の理由としては、世継ぎに恵まれなかったゆえのお家存続の切望とともに、幕府への政治的配慮、忠誠心のあらわれとして家光公の御霊を祀ったものとされています。
 江戸時代の掛川藩には、徳川家康と血縁関係にある松平家をはじめとする譜代大名が代々藩主として入封していました。前述のように、掛川藩主となった氏重の生母多却姫は家康の異父妹であり、家康とは叔父と甥の関係という徳川家と非常に近しい間柄にありました。しかし、北条家の養子となっていたことから、名門北条氏とは言え大名の出自としては外様であり、対外的にも外様として認知されていました。
 氏重にとって、世継ぎに恵まれないが故の家名存続への憂いとともに、血筋としては徳川家の縁者でありながら外様としての境遇への忸怩たる思いがあったであろうことは想像に難くありません。外様であるが故の幕府に対するより一層の忠誠心の明示的なあらわれとして、さらにお家存続への切なる祈念も込めた最後の望みとして、霊屋を建立したものと考えられます。そして何よりも、将軍を祀る霊屋建立は自由勝手にできるものではなく、氏重と家康との近しい関係により、霊屋建立が許可されたのです。氏重にとって、名門北条氏のお家存続が絶望的な状況下、一縷の望みを掛け建立したものと考えられます。
 明暦二年(一六五六)徳川氏ゆかりの霊屋は完成し、その二年後、六十四歳で氏重はこの世を去ります。前述のように、徳川氏に係わる名門保科氏を出自とし、同じく名門北条氏の一門の家名存続と安泰を図ろうとした画策は、皮肉にも氏重一代で終わってしまいます。徳川家光を祀る霊屋ではありますが、徳川幕府黎明期、新たな時代においてお家存続と安泰を図るべく奔走、知略を尽くすものの念願違わなかった武将氏重自身の鎮魂の霊屋とも映ります。


徳川家康を中心とした、徳川氏・北条氏・保科氏 相関図
圧巻の規模を誇る掛川古城の「大堀切」
おわりに
 遠江の覇権をめぐって徳川家康が半年間をかけ奪取した掛川城、発掘調査などを分析していくと家康(以下、徳川氏)により大改修されていたことがわかります。掛川城の本丸虎口にみられる技巧的な改修は、おそらく遠江の各地で展開された武田氏との攻防において、徳川氏が武田氏の築城術を取り込んだものと考えられます。武田氏や前代に比べ、堀と土塁の規模は大きくなりました。大規模化だけでなく、掛川城虎口ではその形状が矩形の桝形を指向した形態であり、それまでの馬出よりも戦術的に進んだ形態とも言えます。家康は築城術において、単に取り込むだけにとどまらず、改良を重ねていったと言ってもいいでしょう。
 掛川古城の本曲輪に鎮座する龍華院大猷院霊屋(以下、霊屋)建立の背景には、徳川幕府黎明期の家名・イエの存続を切に願った藩主北条氏重の悲哀が垣間見られます。北条氏重は、家康と叔父・甥の関係にありました。また、徳川家と関係をもつ名家保科氏を出自とし、さらに戦国大名後北条氏の一門を継ぐ命運を担った人物であり、家名・イエの存続には並々ならぬ思いの中で霊屋を建立しました。結果的に、家名・イエを残すことは叶いませんでしたが、霊屋は現在にも受け継がれ、その建立者の北条氏重の名は現在の人々の記憶にも受け継がれています。
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